花はさかりに月はくまなきを見るものかわ− と昔から言い伝えられておりますが、未開紅は、梅の花が厳しい風雪に耐えしのぎ、強い胞を破って今にも花が開かんとする、力強い梅の花の蕾を表現した菓子であります。この菓子は小豆色と黄色のこなしを重ねて四角に伸し、紅あんを包み上げたもので、見るからに若々しい風情があります。
昭和29年、京都で全国菓子大博覧会(第13回)が開催されましたが、その節に、亀広保・草野逍萠氏が有名な画家の口添えで桜の花の工芸菓子を出品せられましたが、その作品には蕾が多く付けてありまして、若々しく傑作であり、芸術家からは大変人気がありました。茶道書によりますと、四条綴に近江大味という人が、薯蕷饅頭を製造販売されていましたが、ある時身分の低い人が饅頭を買いに来たところ、「我れ等のあきなえる薯蕷饅頭は、尋常の製にはあらずして、銭金では売らぬ。汝等の口にするものではない」とて、固く拒んだといいます。
これは、菓子の未開紅時代のことで、今日このごろと比べて隔絶の感があります。


















 菓子造りの道にはげむ私共は、水無月のういろ等、汁物の種作りには、時には一寸した不手際をして、粉が砂糖と水に溶けてなじみ合わず、ブツブツが出来て始末に困る事があります。これを“まゝこ”と申しますが昔から、継母・継子の代名詞として世に伝わっております。これには如何なる語源があるのでしょうか。少年時代でありましたか疑問が、昭和22年頃に、作家の永井荷風氏(文化勲章受賞者)の葛飾ごよみが新聞に寄稿されて「真間子」の語源を知ることが出来ました。
それによりますと、江戸から東へ下総に入って6〜7里、その土地を葛飾の真間というが、真間そのが名所になってからは久しい。
万葉の山部赤人や、高橋虫麻呂など歴代の歌人が歌にし、また、多くの文人が訪れている。何を歌にしたかというに、“手古奈”のことを歌ったのである。手古奈とは、若い娘の名である。村人の話では、手古奈は早く母を亡くし継母にいじめられていたが、孝行な娘であった。よく働いて生計を助けていたのである。真間は、海岸に近く、井戸水はみな飲用に適していなかった。只一つの井戸だけが良い水が湧き出ていた。
手古奈は、毎日水汲みに行って継母の食事のこしらえをした。手古奈は、すばらしい美人で、常に青年があとをつけるので困った。家までやってきて、家の中をのぞくので、継母が気づきこの青年を泥棒と思い、手古奈がその手引きをしているのだと思って彼女をせっかんした。言い開きをしてあやまっても、継母は聞いてくれなかった。ほとんど死ぬ程にせっかんをうけた手古奈は、やっとの思いで継母の手から逃げ出し、橋から身を投げて死んだのである。
村人があわれみ、手厚く葬った橋に目印の松の木を植えた。その橋を“継橋”と言い、井戸を“継井戸”と言って、継母の因業の見せしめにした。
その橋も井戸も墓も、今なお存在する。
弘法大師がこの地に滞在したので、村人達が寺を建てて供養した。弘法寺と言う。後に寺がこわれたので日蓮上人が再建して現在に至る。弘法大師や日蓮上人が説教の諭えに話したので、この話が地方世間に言い伝えられ、解け合わぬ事、なじみ合わぬ事を“真間子”というのでしょう。
現在真間は海岸が埋め立てられているので、海岸から12キロの地点にあり、江戸川の東岸で京成電鉄の市川真間駅があります。 (おわり)
写真は、京菓子協同組合報京菓子だよりより掲載。

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