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鳥居・鈴=餡平
面=ふ焼
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京都には、昔から「きぬた」と称する大銘菓がありますが、謡曲の砧は都勤めをする夫を故郷で留守居をする妻が夫を恋い慕う物語であります。砧の能舞の披きの菓子にしばしば梶の葉を作りますが、梶の木は雌雄同様の木で一株から数本の雌雄の幹が双生します。
雄の幹には円柱状の花が、雌の幹には球状の花が咲きます。この木を連理の木といって、雌雄別離致しません。
昔よりこの木の皮から紙や糸を製し、糸を拷糸といい、織物を拷布と申します。縁結びの神・出雲大社の大国主命と、越後の国の沼河姫との恋物語で歌に拷綱に言寄せて熱烈ですばらしい恋歌を送って居られます。
また、七夕の織姫は牽牛星と一夜の逢瀬を悲しくせめてもの思いで拷糸で機織りをして居ると申します。
星の国から来た菓子に西王母と三千歳があります。
それは、西暦紀元前140年前、中国に漢の武帝の時代がありました。武帝は中国の歴史上有名な英君で、平和な時代でありました。太陰暦もこの時代に出来たのであります。漢文学大鑑に依りますと、天の神様は武帝に対して賞慶の趣旨を西王母に使者として天降りさせたのであります。西王母は白馬の六頭立ての馬車に乗って降下し、武帝に謁見して土産に桃果を十個献上した。帝は7個食し、王母も三個食した、と、武帝はこの桃がすばらしく美味であるので、この桃の種を植えようとて王母に訪ねたところ、西王母答えて曰くに、「この桃は三千年に一度実を結ぶ」と答えて、「それは無駄でありましょう」と。京菓子で桃の形の菓子を西王母と銘し、桃の花の意匠菓子を三千歳と申します。
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織部饅頭は、古田織部の創作した陶器の紋様を薯蕷饅頭の意匠に取り入れたものであって、菊・松・柳等々に広く応用されているけれども、とりわけ冬枯れの茶室の庭の風情を表現した意匠は素晴らしく、心にくい思いが実に致します。
それは、つい先程まで照り映えていた紅葉もすっかり落葉して、今は常葉木の緑一色となり、早咲きの梅の花一輪が綻び始めている・・・。初水を汲む井戸が新しい竹の簀の子で清められてあり、蹲いには木賊が寒む空を突き刺すように繁っている・・・、という有様を一個40グラムの饅頭に表現して、見た目におおらかで飾り気のない織部好みの模様と焼き目の香ぐわしさと、気高い薯蕷饅頭の味わいを楽しませる菓子であります。
古田織部は、戦国時代末期の武将で中川秀成に仕えていた。本能寺の変の後、豊公に従い関ケ原の戦いの後は徳川氏に召されて一万石の大名となり、二代将軍秀忠の茶道師範を勤めたが、大阪城の夏の陣の祭に大阪方に通じた事が露顕して捕らえられて死を賜る。時に、元和元年6月11日73才であった。武将としては終りを全う出来なかったが、茶道・陶芸・芸術の道では偉大な足蹟を残した人であり、利久門下では七哲の筆頭であり、茶道においては天下六師匠の一人であります。京都堀川通り寺ノ内の興聖寺には、一族の墓があり織部寺の名があります。以上茶道書を参考に致しました。
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写真は、京菓子協同組合青年部美味創心・京菓子協同組合報京菓子だよりより掲載。
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