水と燈籠=生砂糖製、
山=薯蕷饅頭製。





灯・ほおずき・薩摩芋=生砂糖製。





菊の着せ綿=コナシと薯蕷ソボロ製、
盃と菊花弁=餡平製、菊葉=有平製。



 誕生して最初に迎える節句で、女児は3月3日(桃の節句)、男児は5月5日(端午の節句)にお祝いする。桃の節句は上巳の節句弥生の節句などという呼び名がある。上巳の節句とは、日暦3月3日が十二支の上の巳の日であるところから始まり、雛人形を飾り、白酒、桃の花、菱餅などを供えて祝う。この風習は古くからある雛遊びと、中国から仏来した厄払いが一つになったものである。昔はこの日を迎えると「上巳の祓い」といって、紙人形に生年月日を書きこみ、祈祷を受けて身代り人形として汚れを移し、無病息災を念じつつ3日の夕方に火を灯して川に流した。菰に包んだ供物を添えて流すこの紙人形は、厄払いを意味するものであった。京都の宝鏡寺は人形の寺として有名で、光格天皇遺愛の人形を始め、内裏雛を中心に雛人形が赤毛氈を敷きつめた雛段に飾られる。
<草もち 桜餅 引菓子 菱餅 引干切>

 男の子を祝う節句は、5月5日の端午の節句、菖蒲の節句とも呼ばれ、古くからこの日には、魔よけとして、菖蒲やよもぎを軒先にさしたり、菖蒲湯をわかしたり、粽や柏餅を食べたりしたが、男の子のある家では、この粽や柏餅を親類や知人に配った。武者人形や鯉のぼりを飾って祝うようになったのは江戸時代になってからで、粽は中国の風習がそのまま伝えられたもので、紀元前277年の5月5日、楚の政治家であり詩人であった屈原が、秦の始皇帝に滅ぼされる祖国の運命を嘆いて、汨羅の淵に身を投げた時、その霊を慰めようと竹筒に米を入れ命日に川に沈めたのが始まりである。日本渡来は平安前期とみられる。粽の名は、餅米をチガヤ の葉で三角にくるみ、イグサでくくって灰汁にひたし、蒸したことに由来する。柏餅は、江戸時代(正保年間)に作られ、うるち米の中にみそ餡を包み、カシワの葉でくるんだものが多く、後に塩餡にかわった。
<柏餅>

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月=大丸種と抜き模様部分は生砂糖製、
葦=生砂糖製、さざ波=有平製。








松明=平製、御幣=生砂糖製、
炎=有平製。



 
  11月15日に行われる、3才と5才の男児、3才と7才の女児の祝儀。この風習は比較的新らしく、関東地方の慣行だったものが、現在では全国的傾向となった。昨今の華美な服装が一般化したのは、多分に、江戸時代以来の都会の商業政策によるもので、したがって地域的差異もかなり認められる。とは言っても、七五三の年齢が子供の成長にとって、大切な段階と考えられていたことは事実である。3才は乳児期から幼児期への境目で、その時まで付紐で着ていた着物をやめ、始めて帯を着けるので「帯はじめ」「帯解き」「紐落し」等と言われた。また今までの一つ身の着物を三つ身に仕立て変えるので、「三つ身祝」とも言う。頭髪の面からは、「髪置」といって始めて髪を伸ばした。5才の男児を祝う袴着は、武家社会で多く行われたもので、民間ではそれほど厳格には行われなかったようだ。5才の祝を男女共、帯を祝う地方もある。7才は、幼児期から少年少女期の節目として、かなり古くから重視された。「七つまでは神の子」とも言われ、7才になって改めて氏子入りする習慣であった。子供にとって7才になる事は第2の誕生とも言うべき転期であり、それまで人別帳の登録はせず、従って7つ前の死児は本葬さえ行われなかった。この祝を11月15日にするようになったのは、徳川網吉の子、徳松の祝いがこの日であったからとも、又、この日が鬼宿日に当たるからとも言うが、稲の収穫祭の月と同時に氏神を祭る月であったからであろう。七五三を全部足すと15になることも興味深い。因みに、七五三という言葉の語源を考えてみても、先に述べた様に新しいもので、産後の「三ツ目祝い」「五夜目」「お七夜」と行われる「産養いの祝い」の奇数を逆に序列したものである。「千歳飴」は、長寿の縁起もので、飴売りがこの名を考案し、七五三用として広まった。
<千歳飴>
写真は、京菓子協同組合青年部結成20週年誌より掲載。

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